皮膚のない太陽


 
 繭に電話すると留守電が出たのですぐに切った。呼び出し音の向こうからなにか甲高い音が近づいてきたように思われたが、きっとまた気のせいに違いなかった。そのまま携帯をポケットに滑り込ませると、ぼくは空いた方の手でブラインドの隙間を広げる。窓からは夕焼けに染まる街の様子がよく見てとれた。目の前に大学の敷地が広がっているので、市街地の建物にしてはとくべつ見晴らしがいいのだ。山の裾野には黒い陰が波のように押し寄せつつあり、その山際に力なくしがみついた熟んで崩れかけの太陽は血のように赤く濁っていた。まだ照明のついていない部屋から見ると外の景色はことのほか明るく、ブラインドで縞になった長い光が床に敷き詰められたベージュのカーペットを照らしている。ここにはラジオもテレビも雑誌もなく、あるのはベッドと冷蔵庫、バスルーム、小さめの机とそこに積まれた何冊かの本、そしてテーブルの付いたソファセットだけだった。住居というよりむしろホテルの一室に近く、少年はここにたった一人で生活している。ふと視線を移すと、冷蔵庫の上に載っている観葉植物の小さな鉢が目にとまった。強い日差しのためか、茎の枝先から左右に伸びる細い葉のほとんどは焼けて汚くなっている。この部屋は普段ブラインドを閉じているはずなので、おそらく誰かが別の場所から持ってきたものだろう。鉢土にはプラカードが買ったままの状態で刺さっていて、テーブルヤシ、原産地メキシコ、春から秋には土の表面が乾くごとにたっぷりと水を与え、冬はなるべく水やりを控えてください、春から秋の成長期に置き肥を施してください、などと書かれている。まだらに色あせた葉がひどく萎れているように見えたので、ぼくは水をやらなくてもいいのかと少年に訊ねた。しかし彼は机についたまま動こうともしない。ぼくは少年の名前を呼ぼうとしたが、それはできなかった。少年に名前がないという意味ではない。それを正しく発音できる人間がどこにもいないのだ。もう一度同じ質問をしようとして口を開いたとき「水やりはお昼のうちに済ませてあります」と少年は小さな声で答えた。それはハスキーでありながら奇妙に美しい声で、埃をかぶった木琴の音色によく似ていた。こうして無造作に置かれた言葉の質量は少年のぼんやりとした目つきのなかに消え、その眠たげな表情にはいっそうとらえどころがなかった。
 
 少年の部屋は一〇二四号室だった。地階からエレベーターに乗り込んだとき、薄いピンク色をした半袖のシャツを着た男が階数ボタンの前に立っていた。日に焼けた顔が妙に若々しいが、おそらく四十代の前半くらいだ。縦縞の入った半ズボンの下にブランドの不明なランニングシューズを履いていた。シューズの紐の先は黒ずんでいて、ゴムの底も少し擦り切れていた。男の斜め後方に立ったとき「何階ですか?」と訊ねられたので、ぼくは一〇階のボタンを押すように頼んだ。男の声は上ずっていて、何かに追われているようにも聞こえた。そのとき背後の壁にはめ込まれた鏡に気付き、ぼくはそれを覗いた。鏡に映った青年は去年ユニクロで買ったポロシャツを着て、少し色あせた赤いチェックのズボンを穿いていた。のびた前髪が額にかかって表情がよく読みとれない。こいつはいったい誰なんだろうとぼくは思った。ときどき自分と鏡に映っている人間とが同一人物なのかわからなくなって不安を感じることがある。そういうときは相手の目を見て判断すればいい、繭はそう言った。しかし鏡に映った青年の目は前髪に隠れていてよく見えない。きっと向こうからもそう見えているに違いない。ふと自分の左手に疲労を感じて、ぼくは下げていたビニール袋を右手に持ち替えた。袋には緑色の線画で描かれた木がプリントされており、中には駅前で買った白桃が四つ入っていたはずだ。だがエレベーターが上昇するにつれてビニール袋が徐々に重みを増していったので、桃ではない別の何かも一緒くたになって入っていたのかもしれない。なにげなく目を閉じると、瞼の裏にうごめくものがあった。それはどこか別の場所から飛んできた重さが丁度いい止まり木を見つけて降り立つまでのきわめて具体的なイメージだった。不審に思って顔を上げると、すでに階数ボタンの前に男の姿はなかった。エレベーターの中にははじめからぼく一人しかいなかった。
 
 少年は机に向かって本を読んでいる。それは角の擦れた白いハードカバーの本で、それほど分厚いものではない。ぼくはビニール袋から取り出した白桃を両手に持ち、残りをテーブルの上に置いた。右手を差し出しながら一つどうかと尋ねると、少年はこちらを向いてぼくの手のなかにある桃をジッと見つめた。その目つきは真剣そのものであり、まるで桃がひとりでに動き出そうとする瞬間を見逃すまいとしているかのようだった。その表情は不安そうでもあり、照れているようでもあり、少し角度を変えると困惑しているようにも見える。彼の肌はあまりに白く、光の加減で大きく印象が変わってしまうのだ。いまや西日がブラインド越しに縞をつくって壁を照らし、無地の壁紙からはお香を焚いたように仄かな煙が立ちのぼっている。少年のまわりに纏わりついて離れないその透明な煙が、彼の表情に何らかの不確かさを付加していることは明白だった。あるいは時間が少しずつ気化しているのかもしれないとぼく思った。他ならぬ少年自身が、それを自ら行っているのだと。不意に、それまでたっぷり時間をかけて桃の様子を見守っていた少年がここへきて急に顔をそむけた。きっとぼくに業務上の観察をされているとでも思ったに違いない。少年の顔から目を逸らそうと努力はしたものの、その青みすら帯びた皮膚の断片は、すでにぼくの気持ちをがっちりと捕えていた。ぼくの目は少年の皮膚を通してかなた遠く、なにかしら魅惑的な対象、あるいは想像上の情景として横たわる繭の姿を見定めていたのだ。繭。青白い繭。あの子にはあまり深入りしない方がいい、彼女はそう言った。だがぼくは言われた通りにしなかった。「夕食が近いので今は遠慮しておきます」そう言って桃を断ると、少年は背を向けてふたたび読書を始めた。ぼくは白桃を三つ空っぽの冷蔵庫に収め、残りの一つを洗面台で大雑把にゆすいで食べた。彼に何を読んでいるのかと訊ねると「物語を読んでいます」と返ってきた。
 
 身の回りのいたるところで、なにかしらの唐突な表現、無意識の幻想が目についた。本を読む視線、繰り終わることのないページ、凝縮する動作、蒸発する時間、無理強いされた不動の姿勢と、あらゆる物音の不自然な終息、そしてときおり、わざとらしく無意味な言葉のやりとりが表出した。それらは断続的に結びついては消える、少年の思考そのものだ。
 
 桃の芯をゴミ箱に入れて手を洗おうとしたとき、外から救急車のサイレンが聞こえた。少年は読書を中断し、窓の方に少し首を回した。クレシェンドで近づくサイレンの音は、ある点に達すると急に低く聞こえ始め、次第に弱まっていった。そしてそれが完全に聞こえなくなったとき、ぼくと少年との間には入力の途絶えたスピーカーから漏れる空白のような音だけが残されることになった。執拗に耳を聾するその静寂は、なにか目に見えない無数の虫たちによる甲高い羽音にも似ていた。どこからか飛来するその小さなハエはぼくの右手の甲に降り立ち、そのまま身じろぎ一つしなくなるだろう。大学三年目の夏、ぼくの働いていた近所の塾に通う生徒の一人が膝を患って入院した。使いすぎた軟骨に亀裂が入って水がたまる、女の子には珍しい病気だった。もう二度と自力で歩けなくなっちゃうかもと言って笑う彼女のために、ぼくは毎週のように病院へ通って家庭教師の真似事をするようになった。救急車のサイレンが耳から離れなくなったのはその頃からだ。病院には救命救急センターが設置されていたので救急車の出入りには事欠かない。ぼくらはただ待っているだけでよかった。そうしてサイレンの音がやってくる度に二人はしんと黙りこみ、数学や英語の勉強を中断して、その甲高く単調な音色に耳を澄ました。サイレンの音が聞きたかったのではない。患者の搬送を終えて、それが鳴り止む瞬間を待っていたのだ。単に背景でしかなかった救急車両のエンジンが突如音としての主張を始める瞬間、それは聴覚のささやかな反転であり、つかのま猶予された無重力の遊びだった。
 わたしたちは関心のあるものを見るために、自分のまつげや鼻、あるいは眼鏡のフレームなんかを見ないようにするけれど、これってそれと同じことだと思うの、彼女はそう言って続けた。たとえそれが視界に入っていたとしても、動かなければわたしたちの目には見えにくくなる。同じように人の耳は自分の心臓の鼓動や流れる血の音を聞かないようにしていて、その延長線上に救急車のエンジン音もあるんじゃないかな。無意識の裏側に隠れたエンジンの音が、サイレンの消失によって浮き彫りになった瞬間、わたしたちはようやくそのことに気づくの。
 やがて救急車は病室の下からいなくなり、ぼくらは何事もなかったように勉強を再開するだろう。繭はぼくが教える必要のないくらい優秀な生徒だった。
 
 いよいよ部屋が暗くなってきたが少年にはまったく気にならないようだ。置き時計のデジタル表示もよく見えない中で黙々と読書を続けている。灯りをつけていいかと尋ねると、彼は右側の尻に体重を移しながら「それはいい考えですね」と言って左足を上に組んだ。ぼくは照明のスイッチを入れて、きみと違って鳥目なんだ、と軽口を叩いた。しかしあいにく鳥目という言葉の意味が伝わらなかったらしく、少年は首を傾げたまま黙り込んでしまった。会話の糸口が途切れたせいで、ぼくはまたはじめから言いなおさなければならなかった。  ところで昨日は何をしていたの、とぼくは尋ねる。
 「昨日ですか?」少年は持っていた本を机の上に畳んで言った「コロラドの先生たちとお話しました」その声はひどく退屈しているようにも聞こえた「あの人たちとは、ここへ来たばかりのころにも何度かお話をしましたが……誰も彼も、聞いてくることはいつも同じですね」
 先生連中が聞いてくることはおおむね想像できる。考古学や天文学、神学について、あるいは石油はいつまでもつのか、地震がいつ起こるのか、地球の外に生き物がいるのか……その手の話だろう。
 「ええ、そのとおり」頷きながら少年は言った「それからリーマン予想のことも」
 リーマン予想! ぼくは頭をのけぞらして笑った。少年からこうした事柄の答えを引き出そうとする者は未だに多いのだ。彼にそんなことがわかるはずないのに。 「そのうえ昨日は」と言って少年は続けた「自分がいつ死ぬのか知りたいと言い出す人がいて、何度もしつこく訊かれました」もちろんそれは、なにも今に始まったことではなかった「しまいにはみんな同じような事を聞き始めて、いつまでもその話を止めようとしない」
 残り時間がわからないことに誰だって不安を感じるものだとぼくは言った。現在やるべきことが何で、やるべきじゃないことが何なのか、自分の時間を有効に使う方法を、みんないつだって知りたがってる。
 「合理的であるということをどうして人はそんなに大事にするんだろう」そう言って彼はかぶりを振った「そして自分たちの使う合理的という言葉が合理性から大きくかけ離れているということに彼らはまるで気づいていない」少年の声には輪郭というものがなかった。
 その間ぼくはずっと少年の膝を見ていた。それは不自然に白く、かつ一切の体毛をまとわず、まさに宇宙の破滅的な黒い真空部分と対をなすものだ。これほどまでに空しい膝が、かつてこの世界に存在しただろうか。少年の蝋色に透き通った肌は霊柩車を待つ柩のような恐ろしい沈黙を帯びている。
 実験動物のように飼殺しにされて辛くはない? とぼくは呟いた。だがその質問が少年にとってまったく意味をなさないことを、ぼくはすでに知っていた。
 「あなたも不思議な事を言うんですね」そう言って少年ははじめて笑った「飼育してると思ってるのは、今も昔も、あなた方だけですよ」
 
 そのときノックの音が四回聞こえた。少年が返事をすると、ドアが開いてステンレスのワゴンと若い女が入ってきた。女は同じビルに入っているイタリア料理店のウェイトレスで、台車にはたっぷりのミルクとコーヒーポット、ローストチキンと温野菜の付け合わせ、そしてバターを添えたロールパンがふたつ載っていた。部屋の中に肉料理の重い匂いが広がり、いまやぼくは部屋に漂うさまざまな匂いに気を取られている。エスプレッソの鋭く濃縮された匂い、自分の口元に残った桃の匂い、目の前で夕食のセッティングを始める女の身体からはミント匂いがした。ローストチキンからローズマリーの匂いがするのは、オーブンで焼く前に肉に切れ目を入れて、そこに細かくしたローズマリーを詰めこんだからに違いない。繭はぼくの誕生日に羊の肉を焼いた。子羊のもも肉に切れ目を入れ、そこにローズマリーを押し込んでから長い時間オーブンで暖めた。こうすることで羊肉の臭みが取れて食べやすくなるのだと彼女は言った。余ったローズマリーは水につけられたまま冷蔵庫に放り込まれ、それは腐るまでそこにあった。ウェイトレスが仕事を終え、丈の低いデコラ張りのテーブルに少年の夕食が並んだ。女は背筋を伸ばし「食べ終わったらいつものとおりワゴンごと廊下に出しておいてください」と言い残してそのまま退出した。ドアが閉まると少年はソファに腰かけた。そしてナイフとフォークを握ると、そのまま温野菜に手を付けはじめた。
 
 ふとポケットの中に振動を感じた。携帯を取り出してみたがメールも着信も入っていない。もう一度繭に電話をかけようと思って番号を探したが、すぐに電波状況が圏外の表示になっていることに気づいた。その瞬間、さきほどから耳に響いていたあの周期的な音が急に音程を下げ、次第に目の前から遠ざかっていくように感じられた。ぼくは居ても立ってもいられず、いまや電波を探して部屋中を歩きまわり、いまやブラインドのかかった窓の前で携帯を宙にかざし、いまや食事に夢中になっている少年の部屋を飛び出して一〇階の廊下を探索している。そしていまやぼくは、扉と相対する壁面に鏡の埋め込まれたエレベーターのなかに立ちつくし、階数ボタンの前に陣取った、縦縞の入った半ズボンの上に薄いピンク色の半袖シャツを着た中年男の背中を見ている。男の黒々とした頭頂部は、その後ろ姿に不安定な若々しさを与え、年のころの定かならぬ印象を際立たせている。いまやぼくの左手には白桃の入った小さなビニール袋がぶら下がっており、ふと疲労を感じてそれを右手に持ち替えたとき、いまやエレベーターの中に男の姿はなくなっている。一階ロビーへたどり着いたぼくの足には安物のサンダルがへばりつき、その下にはいまや大理石の市松模様が広がっている。そこで目にとまるのは入り組んだガラスが身を寄せるシャンデリア、壁画のある壁……描かれているのは皮膚のない太陽。いまやぼくは足早にエントランスを通過し、むせかえるような外の空気を呼吸し、そしていまや、ぼくは三本目まで表示された携帯の電波状況を注視している。夕焼けはすでに山の向こう側まで後退し、暗いなかに浮かぶ携帯の画面はひどく明るく、たまらなくなって顔を上げると、いまや山の上には細長い月が浮かんでいる。それは下弦の三日月であり、少年の肌に似てほのかに青白く、その凍えるような光を目の当たりにする一瞬、ぼくは世界の掛け値なしの実相を見るだろう。繭に電話して話すことなんて何もなかったのだということに、そこでぼくははじめて気づくのだ。
 
 「月が好きなんです」と少年は言った「山の上に浮かびながら、沈む太陽を見降ろす荒涼とした眼が。かつて柔らかく波打っていたものの、いまや冷たく、氷河のように凍りついてしまったあの月が」はじめて少年に会ったとき、彼はこうしてぼくらに自らの追憶を語った。それは遠い昔、柔らかく煮えたぎる惑星が重力に囚われ、地球の衛星となってしまった日の話だった。その惑星は月と呼ばれていたという。 「落ちてくる月を望遠鏡で眺めていました。表面は穴ぼこだらけで、それを避けるように緑色の静脈のような線が無数に走ってるのが見えました。ひとつひとつの穴はかさぶたみたいに赤黒くなっていて、そこから白く濁った雫が膿のように溢れ出ていました。柔らかい月の滴りは粘っこい輝きを放ちながら、地球に向かって伸び始めます。その様子はまるでロウソクの蝋か、さもなければ動物の精液そのものでした」言葉による説明であるにもかかわらず、その情景を想像することはたやすかった。それはきっと少年の言葉が描写ではなく一種の解釈だからかもしれないとぼくは思った。
 「こうした景色を望遠鏡で拡大していくにつれて、自分の見ているものがいったい何であるのか、だんだんわからなくなっていきました。生々しい細部をいっぺんに見ることで、それらは複雑に混ざり合い、構造がどんどん埋没していったからです。そうしているうちに、やがて月の分泌液、粘ついた蝋の滴りは無数に触手を伸ばし始め、さらにそのひとつひとつが苔や片栗粉、毛髪、ぬか味噌の入り混じったような足を延ばして、地上へと降り注ぎました。柔らかい鳴動がおこり、周囲一帯が鈍い音響に包まれます。衝突によって生じたあらゆる破片が月と地球の重力の間に束縛され、あたり一面砂塵のように吹き荒れていました。やがて衝突が起こった面を背中にして現在の軌道に落ち着いた月は、質量の大半と重力を失い、持てる全ての富を手放して、ゆっくりと冷えていきました。こうして柔らかい月は、追憶の中に閉じ込められてしまったのです」
 はじめのうち、少年の言葉が人びとに顧みられることはなかった。しかし時を待たずしてその状況は一変した。
 
 それが起こったとき、ぼくらは病室にいた。鋏の刃のように鋭い光がちらついたあと、窓の外は急激に暗くなり、カラスの鳴き声が頻繁に聞かれるようになった。まだ歩けない繭に肩を貸して窓辺まで連れて行った。沈黙のあと、どうなってるの、と彼女は言った。ぼくは答えなかった。太陽はすでにその半分を欠いていたが、それはぼくらの知っている日蝕とはまるで違っていたのだ。空は瞼の裏を通してみるような赤い色をしており、欠けた日の光がゆらゆらとした湯気のようになって、あるいは束ねられた繊維のようになって、蠢きながら地上へと差し込んでいた。窓を開けると外から甲高く周期的な音が聞こえてきた。救急車のサイレンや風にしなる樹の音、鳥の鳴き声や路面を走る車のタイヤの音、その他ありとあらゆる音が不可逆に混じり合った音だ。
 「それは他ならぬ太陽による、断末魔の叫びでした」少年がそう言ったのはその数日前のことだった。彼は大昔におこった皆既日食の話をしていたのだった。
 「透明な果実の色をした空に揺らめく光の束は、太陽のからだからほぐれてできた糸でした。細長い繊維の間で、鳥たちが隠れんぼをして遊んでいるのが見えました。太陽の解体は止まることを知らず、糸は急速に空へとあふれ出ていきました……そうです、太陽には皮膚がなかった。だから一度ほぐれた本体をその体内に押しとどめておくことはできなかったのです。洪水のように四方八方へ流出する光は、あたかもそれぞれの注意が同時に相反する概念へと牽きつけられているかのようでした。こうして全ての繊維が黒い空へ消えたとき、太陽は完全に沈黙したのです。情け容赦のない闇がそこにはありました。取り残された人びとは、枕を抱えて嘆き悲しむ子供のように地上を徘徊しました。それは何の偽りもない、純然たる死そのものでした」目の前で日蝕が進むにつれて、ぼくらは次第に方向感覚を失っていった。自分たちの目にしているものが、まさにあのとき少年が言った太陽の糸に他ならないと気づいたからだ。
 「しかし、それはつかの間の死にすぎませんでした。完全にほぐれた太陽は、再びより合わされることになります。薄いざくろ石のような紅玉色をした繊維が空をさかのぼり、糸はふたたび絡み合い、やがて太陽は元の姿に戻るのです。それはうたかたの喪失であり、うたかたの孤独であり、うたかたの自由だったのです」
 太陽が息を吹き返したとき、パジャマ姿の繭は動かない膝をかばいながら、両手でぼくの腰にしがみついていた。なんなの? いったいどうなってるの?
 わからない。
 わたしたちはいったい何を見ていたの?
 わからない。
 あの子の言ったことが本当になったの?
 わからない。ぼくには答えられなかった。
 それからしばらく経って繭が退院した後もぼくらの関係は続き、少年の言葉はなおも現実となって人びとの間に蔓延していった。
 
 少年がようやく食事を終えたとき、皿にはロールパンが半分だけ余っていた。よごれた食器は一つずつワゴンに載せられ、テーブルにはコーヒーポットと彼のカップだけが残されている。一人で飲むには多すぎると言ってそれを薦められたので、ぼくは頷いてソファに腰掛けた。すると少年がおもむろに立ち上がって机の引き出しを開き、中から漆塗りのコーヒーカップをひとつ取りだした。「来客用のカップです。清潔なので安心してください」そう言ってテーブルに戻る彼を見ながら、ぼくはむかしの知り合いをひとり思い出したよ、と話した。それは大学のころの知り合いで、いつも研究室のデスクにスキットルを隠し持っている男だった。中身はウイスキーで、それもかなり上等なやつだ。ぼくの通っていた大学では何かイベントがあるとすぐ野外で肉を焼きながら酒を飲む風習があって、そのたびに男はそのスキットルを持ち歩き、いつもフラフラになるまで酔っ払っていた。あるとき、ふたりで連れ立って小用に出かけたことがあった。足をもつれさせながらトイレにたどり着くと、男はジッパーを下ろしたまま下を向いて微動だにせず、かと思えば急にズボンの中をまさぐりはじめたりと落ち着かない。いったい何事かと尋ねてみると「無いぞ。おい、無くなっちまった」とわめき始める始末だ。男の急な慌てぶりがあんまり可笑しかったものだから、ちゃんと探せばあるはずだ、と適当に励ましてそのときは先にトイレを後にした。だがもしかすると、あれは本当に無くなっていたのかもしれないとぼくは思った。そのように考えることは何ものにも禁じられないだろう。なにが本当におこったのかなんて、結局のところ誰にもわからないのだ。
 
 わたしはこれまで何が本当におこっているのかについてばかり考えていたの、あるとき繭はぼくにそう言った。なにが本当におこったのか……この問いには一つ乱暴な答えがあって、より多くの人間が本当だと思ったことを本当におこったことにしてしまうっていうのがそれよ。でもそうすると、いまや多くの人間に伝染してしまったあの子の言葉は、成長しながら徐々に真実へなりかわろうとしてるということになる。それはそら恐ろしいことだとわたしは思った。なにしろ、これじゃたった一人の人間が現実を規定することになるからね。でもあなたと話していてわたし気付いたの、じつはそうじゃなかったんだって。あなたが言ったように、何が本当におこっているのかっていうのはそれほど重要なことではなかった。あの子の言葉はおこったことを語っていたわけではなくて、それは解釈にすぎなかったの。彼の言葉は彼自身の目に映る現象の汎霊説的な解釈であって、それはひとつのモノの見方にすぎなかった。それは実際におこった出来事そのものではなかった。だから彼の真に特別な点は、全てを知っていることでも、ましてやこれからおこることを予言することでもなく、出来事の解釈を浸透させる何らかの方法を持っていることなんじゃないかな? あの子の解釈は月を躍動させた。太陽を沈黙させ、物質に命を吹き込んだ。つまり彼を野放しにしておけば、やがて目に映るもの全てに命を宿してしまうのかもしれない。だからあの子をあの部屋に幽閉したのは、やっぱり間違っていなかったと思うの。これはとても悲しいことだけどね。何しろあの子は加減というものを知らない……言うなればアニミズムの権化みたいなものだから。ねえ、そうでしょう?
 
 ぼくがスキットルの男について話しているあいだ、少年はどことなく楽しげだった。とはいえその表情はあいかわらず不安定で、楽しげに見えると同時に照れているようにも見え、少し角度を変えると一転して退屈しているようにも見えた。話を終えて空になったカップをテーブルに置くと、少年はそれを手にとってそのままワゴンの上に載せた。「こうすれば明日の朝食のときに洗って持ってきてくれるんです。この部屋に洗剤なんてありませんから」彼はそう言って笑った。そしてぼくがはじめて自分の間違いに気が付いたのは、少年がウェイトレスに言われたとおりにワゴンを廊下へ出そうとしているときのことだった。このままでは三分と経たないうちに、ぼくは少年に退出の意図を伝えることになってしまう。そしてきっとまた手土産を持ち、少年を訪ねてこの部屋へやってくるに違いない。それは今まで幾度となく繰り返されてきたことだった。事実、ぼくはいまや立ち上がり、先週もそうしたように夕食のワゴンを少年に変わって運ばずにはいられなくなっている。また初めからやり直さなければならない。
 
 いまやぼくは再び一〇二四号室の扉の前に立つ自分の姿を想像しようとしている。難しいことではなかったが、かといって一向にはかばかしくない。地階から無人のエレベーターに乗り込み、ぼくは自分で一〇階のボタンを押した。先ほどから建物の中でまったく人を見かけないのが気にかかったが、そのままエレベーターを降りて廊下を進んだ。ぼくは手ぶらで歩いている。少し前に駅前で買った白桃が見当たらないが、どこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。ぼくは一〇二四という数字がふられた部屋の前で立ち止まり、ドアの脇にあるベルを鳴らした。返事はなかった。ドアの前で二〇秒ほど待ち、それから咳払いをした。もう一度ベルを鳴らそうと手を伸ばすと、ドアがゆっくり内側に開き、少年が姿を見せた。部屋のなかへ通されると、床には毛足の短いベージュのカーペットが敷き詰められていた。そこにはラジオもテレビも雑誌も置かれておらず、あるのはベッドと冷蔵庫、バスルームと机、そして来客用のソファセットだけだった。外の風景はブラインドによって遮られ、西向きの窓は決して夕焼けを映さなかった。窓の脇に冷蔵庫があり、その反対側の壁にシンプルな仕事机がある。少年にソファへ座るよう促されたがそれには従わず、ぼくは窓際まで歩き、そこで携帯電話を取り出した。
 
 繭に電話すると留守電が出たのですぐに切った。呼び出し音の向こうで何か周期的な音が遠ざかっていくように思われたが、きっとまた気のせいに違いない。携帯をポケットに滑り込ませながら右手でブラインドの隙間を広げると、窓から夕焼けに染まる街の様子がよく見てとれた。山の裾野には黒い陰が波のように押し寄せつつあり、その山際に力なくしがみつく崩れかけの太陽は血のように赤く濁っている。ブラインドを閉じると、冷蔵庫の上に載っている観葉植物の小さな鉢が目に止まった。強い日差しのためか、茎の枝先から左右に伸びる細い葉のほとんどは焼けて汚くなっていた。この部屋は普段ブラインドを閉じているはずなので、おそらく別の場所から持ってきたものだろう。まだらに色あせた葉がひどく萎れているようだが、土が湿っているところを見ると水やりを怠っているというわけではないようだ。もしかするとこの木はもうじき寿命を迎えようとしてるのかもしれない。萎れたテーブルヤシから目を離したとき、不意にポケットの中が震えた。携帯のディスプレイが繭からの着信を知らせているのを見て通話ボタンを押し、ぼくはすぐにそれを耳に当てた。いきなり「私なんていないの」という声が聞こえてきたかと思うと、次の瞬間にはもう通話が切れていた。不審に思って携帯の画面を見たところ、そもそも電話が繋がっていないということに気付いた。すぐに履歴を確認してみても、繭からの着信は入っていない。今までの着信履歴やメールを探したが繭とのやりとりは何ひとつ残っていなかった。最後にぼくはアドレス帳を開き、そこに繭の名前が登録されていないことを確認した。
 
 突然のしじまのうちに、ありとあらゆる動作が凍りついた。部屋中に纏わりついていたあの透明な煙もいまや凝固し、カーペットの毛の間で青白い骨の粉末のようになって沈黙している。ぼくはそれが禁止されていることと知りながら、少年の前でブラインドを一気に上げて外の景色をさらした。そこには山の上に浮かびながら、沈む太陽を見降ろす荒涼とした眼があった。そしてその眼に光を与えているのは、今まさに沈みかけているあの熟れきった太陽に他ならないのだ。
 あなたはもっと早くこうするべきだった、繭はぼくにそう言った。わたしがまだ近くにいたときに。あなたはあまりにも遅すぎたの。
 きみは恐ろしいことを言ってる。
 いいえ本当のことを言ってるの。わたしの不在を認めて。あの子とはもう関わらない方がいい。
 そんなこと言わないでくれ。
 それがあなたにとって一番いいことなの。こうしなければきっと何度でも同じことを繰り返すに決まってる。たしかにあの子はあらゆる物事をあらゆる形で目撃させてくれるかもしれない。でもそうやって押し付けられた光景は、本当におこったこととは何のかかわり合いもないことなの。あの子の言葉は神話に他ならない。そしてそうやって与えられた神話をあなたは解釈するべきではない。なぜなら神話は、それ自体が現象のひとつの解釈にすぎないから。あなたはあの子の眼に囚われているだけよ。あの子に近づこうとする他の全ての人間と同じようにね。わたしたちは全員、最後には自分の眼に頼るしかないの。
 でも、一人じゃ何もできないんだ。
 違う。あなたははじめから一人だった。
 はじめから?
 そう。
 これからも?
 そう。
 やめてくれ。ぼくはいったいどうすればいい?
 どの道わたしには助けられないの。
 きみは一人でどこへ行くつもりなんだ。行くあてがあるのか?
 どこへも行かない。はじめからこの足じゃどこにも行けなかった。そうでしょう?
 お願いだ。頼むから。
 駄目。もう決めたの。
 繭。
 お元気で。
 繭。
 さようなら。
 これが彼女との最後の会話になった。
 
 「顔色が悪いみたいですが、大丈夫ですか?」少年はぼくにそう訊ねた。彼の表情は相変わらずぼんやりとしていて、その眠たげな瞳はそこに映るものすべての質量を呑み込まんとしている。あらゆる鈍重さとあらゆる緩慢さを、その目と言葉によって今まさに解き放たんとしている。いまやぼくの視界は鮮明だった。自分が少年の瞳に繭が映り込む日を心待ちにしていたのだと、ぼくはすでに気が付いていたからだ。それが可能であることをぼくらは知っていた。しかしそれをおこなうべきではないということも、また同様に知っていた。それでも少年が繭に命を宿す瞬間をぼくは期待してやまなかったのであり、同時にそのことから目をそらし続けてきたのだ。自分が少年に夢を仮託した多くの人間のうちの一人だということを、ぼくは少年の目の前で、こうして今はじめて認めたのだった。少年はぼくに何も言わなかった。ぼくにもそれ以上言うべきことはなかった。それはとても自然な出来事であり、ごくありふれたひとつの挫折であった。
 もうここへ来ることもないだろう、そうやって手短に別れを告げると、ぼくは少年の部屋を後にする。少年は最後に「さようなら」と言い残すが、その奇妙に美しい声は尖っているようにも、またかすれているようにも聞こえた。「あなたとは、てっきりお友達になれるんじゃないかと思っていました」そのままドアがゆっくりと閉まり、彼の声は部屋の内側へと閉じ込められた。
 少年とはそれきりだった。
 
 地階へ下りると廊下の先にイタリアンレストランの看板があった。店の入口の前を通ったとき、ホールで誰かのディナーを運ぶウェイトレスの姿を見たが、ぼくが着ているのはユニクロのシャツだったし、履いているのは安物のサンダルだった。そのまま素通りして外に出ると、生温かい風が頬を打った。そしていまや、ぼくは夜の虫のきしるような音、国道を走る車の平等で無関心な音、山の向こうへ走り去った黄昏の低く響きわたる音のなかを歩き出していた。ずっとこびりついていたあの甲高く周期的なサイレンの音はとうに消え去り、すでにぼくの耳のなかはしんしんと晴れ渡っていた。
 ふと空を見上げると、そこには青白い三日月が凍ったように横たわっている。それは身じろぎひとつせずに乾いた眼差しでぼくを見つめていたが、もはやその眼の中にぼくの気を引くようなものは何ひとつとして残されていない。こうして二人の言葉は冷たい石となり、それはぼくへの最後の贈り物になった。その光に背中を押されて、ぼくはふたたび歩きはじめた。
 
 
 
 
 
 作中の月に関する記述部分はイタロ・カルヴィーノ『柔らかい月(河出文庫)』を参考にしました。

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