鉛色のラズベリーコーク


 
 城下町の目抜き通りは道行く人々でごった返していて、男は往来する群集に注意しつつ歩まねばならなかった。通り沿いに構えたバーやカフェの店頭にはお決まりのネオン管が灯っていて、第三土曜の夜特有の、熟れ過ぎたトマトのような倦怠感をふりまいている。
 吐く息はまだ白い。三月の終わりのことだった。
 ロンドンタイムズ西区支局の前を抜けて角を曲がると、歓楽街の妖艶な空気が鼻をくすぐった。ディックのナイトクラブからは、今夜もジャズピアノのにぎやかな音色が漏れていた。その旋律を耳に留めおきながら、そのまま噴水通りの方向へ進んだ。慣れた足取りで人々の肩の合間を抜ける彼の右手には紙袋が下がっていて、中から未開封のボトルのコルクが顔を覗かせていた。
 噴水通りにつくと、四丁目の路地で一軒の店に立ち寄った。
 ガラス張りのドアをくぐると、小ぢんまりとした店内に似つかわしくない、シャンデリアを模したような豪奢な照明が天井に吊られていた。電球が九つ取り付けられている。そのうちの一つが明滅しており、今にも切れかかっていた。
 カウンターの奥には、頭のてっぺんまで禿げ上がった店主が、座って新聞を広げている。
 「先ほど電話で注文した者ですが」カウンター越しに向き合って、男は店主にいった。
 「受け取りに来ました」
 「もう少しで焼きあがるから」といって店主は新聞をたたんだ。
 「どれくらいかかりますか?」
 「ほんの五分ってとこだ」
 「それならよかった。なんとか間に合いそうです」
 「誰かと待ち合わせかい?」
 「ええ、まあ、そんな感じです」
 「なんだい、はぐらかすなよ。注文したホールケーキを、赤ワイン片手に受け取りに来ておいて、今更じゃないか」
 店主がいうと、男はきまりが悪そうに苦笑して、ボトルの入った紙袋を左手に持ち替えた。申し訳なさそうに右手をぶらぶらさせて、そのまま制服の襟を正す。制服は城の士官が着るものとよく似ていた。
 店主が口を開いた。
 「兄ちゃん、あんた、テムズ川のお城勤めかい?」
 「そうです」
 「なるほどね。じゃあ、週末にしか会えないってわけだ」
 「ええ。平日の間は、城の宿舎でお世話になってますから」
 「まだ若いのにお国のために働いて、たいしたもんだ。うちの息子ときたら、この市の保安官なんかやって、それで満足しちまっていやがる。少しは兄ちゃんみたいなのを見習って欲しいもんだよ」店主は豪快に笑って、また新聞を広げた。
 新聞の一面には『城下町でまた連続放火魔出現か』という見出しが躍っている。一年前に西区を騒がせた連続放火事件との関連について書かれていた。今回の舞台は南区であるようだった。
 店主の新聞から目をはずし、男は顧客用に用意された黒塗りのストゥールに腰を下ろした。両ひざにひじを立て、目頭に指をあてがってしばらく俯いた。顔を上げて目を開けると、カウンター奥の壁が、不意に目に入った。
 そこには、一枚の絵画が飾られていた。そこには真夏の海岸線が描かれていて、海の紺碧と、砂浜の白とのはっきりとした境界線が、そのまま画面いっぱいに迫ってくるような絵だった。その真っ直ぐな海岸線は、起伏に富んだ豊かな陸地の、唐突な断絶を示していた。
 しばらくすると、海岸線の絵の前を横切って、白い箱を両手で持った女が店の奥からやってきた。女は頭に白いバンダナをかぶって、黒い前掛けをしていた。
 「お待ちどうさま」女は店主に、抱えていた箱を渡して、男に向き直った。「聞いてたわよ。これ、お連れさんのためなんですって?」
 「ええ、まあ」といって、男は頭をかいた。
 「なに? 結婚記念日か何か?」
 「いえ、僕たちはまだそんな……ただ、ちょっと誕生日のお祝いをしようっていうだけなんですよ」
 「あらあら、そうなの。あんたみたいな色男だと、彼女さんがうらやましいわね。なにせうちの主人ときたら、こんな有様ですからね」と奥方は背後の店主を指さした。
 「おいおい、ひでぇこと言うんだな」と店主が呻いた。「いやしくもこんな有様にプロポーズされて、涙ちょちょ切れて喜んでやがったのは、いったいどこのどいつだい」
 「あの時はね、あたしもどうかしてたんだよ」おどけるように奥方が店主に言う。「そんなことよりあんた、ちゃんと綺麗に包んでおやりよ。なにしろ大事な記念日なんですからね。一年に一度っきりしかないんだもの。あ、リボンは赤がいいわ」
 「はいはい」と店主。
 ケーキの箱に十字を切って巻かれたのは、細めの真っ赤なリボンだった。それはとても鮮やかで、とても細いリボンだった。
 「さあ、これでばっちりだ」店主は左手で結んだリボンの先を持ち、右手で引き出しを探った。引き出しから小さなハサミを取り出すと、店主は赤いリボンを切った。切れたリボンの先はすぐに巻き取られ、ハサミと一緒に引き出しの中に吸い込まれていった。
 「待たせたね」と奥方は店主から箱を引き取って言った。「色男に免じて、今日は16ポンドに負けといてやるよ」
 「ありがとう」男は愛想よく微笑んだ。
 支払いを終えると、男は不意に左手の紙袋に手を伸ばし、赤い液体の入ったボトルを取り出した。それは先ほど、店主が赤ワインと称した、未開封のボトルだった。中の液体はシャンデリアの明かりを受けててらてらと輝き、まるでそれが粘度を持った物質であるようにも映った。しかしそれは錯覚で、次の瞬間には、もう元の透き通った質感に戻っていた。
 「このボトル、さっきは葡萄酒だと思われたようですが、本当はそうじゃないんですよ」
 「おや、違ったのかい」店主が首を傾ぐ。「それじゃあ、そいつは一体なんなんだい?」
 すると男は、いくぶん声色を明るくして言った。「これ、ラズベリー酒なんですよ。ラズベリーの、果実酒なんです」中の液体が、また少し粘度を増したようだった。
 男はケーキの箱を受け取った。笑顔で見送られながら、店を出た。
 
 
 
 エトレーハイツ305号室に住む若い女は、男の訪問を待っていた。
 午前中は部屋のほこりを落としたり、絨毯の染み抜きをしたりして時間を潰した。昼食を済ませてから身繕いをして、子羊の足とローズマリー、ブロッコリにアスパラガス、それに蜜のたっぷり入ったリンゴを買ってきた。今日が二十四歳最後の日なのだと伝えると、肉屋の主人がカーネーションを分けてくれた。自分の妻の誕生日と一日違いだと、うれしそうに言っていた。部屋に帰ると、彼女は台所へ行って花瓶を洗い、カーネーションを生けた。テーブルに赤い彩が咲いた。
 子羊のもも肉に切れ目を入れ、そこにローズマリーを押し込んでからオーブンで焼く。オーブンは暖まるまでに時間がかかった。しかしまだ時間はたっぷりある。余ったローズマリーを水につけて、冷蔵庫に放り込んだ。
 食後用にコーヒーを淹れた。ミルクが少し残っていたので、休憩がてら、ラテにして一杯だけ飲んだ。砂糖をたっぷり入れて。飲み終えてから空になったミルク瓶を集めて、ゴミを出しに集積所まで歩いていった。外はもうすっかり暗くなっていた。部屋に戻るとき、階段でつまずいて転びそうになった。サンダルの踵を壊してしまった。
 パスタを茹でる間、彼女は昨日買った婦人雑誌に掲載された《セックスとは快楽か苦痛か》と題した記事を読んで待った。パスタの茹で加減は絶妙だった。料理の下準備は昨日から始めてあったので、完成までそれほど苦労はしなかった。焼きあがった子羊からしみだす肉汁が、まるでそれが初めから望まれない異物だったみたいに、子羊の皮膚から滑り落ちていた。
 後は皿によそるばかりという段になって、電話の呼び鈴が鳴った。水滴を垂らす蛇口をしっかり閉じてから、彼女は電話を取った。
 受話器から女の声が聞こえてくる。「マリイ、あんたなの?」
 「ええカリーナ、わたしよ。どうかした?」
 「どうしたもこうしたも、あんた誕生日でしょ? おめでとうぐらい言わせてよ」
 「あら、それはどうも、ありがとう」
 「ホントは直接会って言えればよかったんだけどね。でも、今夜はあたしがいたら、きっとお邪魔になるでしょ?」
 「邪魔だなんて、そんなこと全然ないのに」
 「いや、いいの。時間は大事に使うべきだわ。彼とは週末にしか会えないんでしょう? せっかく誕生日と重なったんだから、ちゃんと一緒に居なくちゃ」
 「言われなくたって、そうするつもりよ」
 受話器を耳に当てながら、マリイは伝線を指に巻きつけ、すぐにほどいた。また巻きつけ、ほどく。同じことを何度も繰り返した。
 カリーナが口を開いた。
 「先月駅前通りに新しくできたお店、知ってる?」
 「いえ、知らないわ」
 「ダイニングバーなんだけど、そこのパフェがすごく評判いいみたい。来週にでも、二人で一緒に行かない?」
 「ええ、よろこんで」
 「よし、じゃあ決まり」
 「あ、でも一つだけ条件があるわ」とマリイは言った。
 「条件?」
 「この前着てきたグリーンのコートで来るのは、やめてちょうだい。あれじゃあ目立ちすぎて、こっちが恥ずかしいもの」
 「え、だってあれ、あたし結構気に入ってるんだけど」
 「またあれで来るなら、一緒に行ってあげないからね」
 「いじわる」といってカリーナは笑った。「彼氏持ちのあんたと違って、あたしは目立つ格好でもしないと、なんにも始まらないんだから。しょうがないでしょ」
 「あなたは、もっとおしとやかに見せたほうが、絶対いいと思うのに」
 「大きなお世話」とカリーナが吐き捨てて、二人は同時にふきだした。
 それから二人はしばらく黙った。会話はぱったりと途切れたが、そこに居心地の悪い気まずさはなかった。受話器越しの沈黙が、ごく自然に共有されていた。まるで水面すれすれで飛んでいたコウノトリが、音も立てずに湖に落ちこんだような、それでいて水面に波紋一つ立たなかったような、そんな倒錯的で、それでいてごく自然な静寂だった。
 先にそれを破ったのは、カリーナだった。
 「なんだかあたし、あんたがうらやましいみたい」
 「なにがうらやましいって?」
 「たとえばさ、夜、ベッドに寝転んで、世界中に私以外誰もいないように思えたとき……朝、独りきりで目覚めたときの気分、あんた、最近考えたことある?」カリーナの言葉は染み込むように、凍った水面に吸収されていった。
 「わたしだって、たいして変わらないわよ」とマリイは囁くようにいった。「週末だけなのよ。あとはずっとひとりなんだから」
 「でもね、そのひとりと、あたしの独りは、やっぱり違うよ。少なくともあなたは、独りではない」
 「でも……」マリイは、なにも答えられなかった。
 「ごめんね、こんな話。今日のあたし、どうかしてるみたい」とカリーナは言った。
 「いいえ、わたしは全然構わないの」
 「ううん、ごめん。今のは忘れて」カリーナの自嘲的な表情が、電線と受話器を伝達した。「とにかくあんた、せっかくの誕生日なんだから、ちゃんと楽しみなさいよ。わがまま言ったっていいんだから。おもいっきり甘えて、困らせてやるんだよ」
 「なにそれ。わたし、あなたみたいに甘え上手じゃないのよ」とマリイは笑った。「でも、ありがと」
 「いいのよ。そしたら、また電話するから。じゃあね、マリイ。彼によろしく」
 相手が切ったのを確認して、静かに受話器を置いた。時計を見ると、ちょうど二十一時をまわったところだった。
 マリイはキッチンに戻り、料理の盛り付けをはじめた。子羊のオーブン焼きに、アスパラとクリームのパスタ、それと温野菜の付け合わせ。ケーキに添えるために焼いた、蜜たっぷりのリンゴ。遅めのディナーの準備は整った。
 ソファに持たれて、男の帰りを待った。約束した時間までもう少しだった。男が時間に遅れたことは、これまで一度もなかった。
 食器棚の脇にかけられたカレンダーには、大きな桜の木の写真が載っていた。先月の終わりに、二月の分を剥がそうとしたのが失敗して、三月の分も一緒に剥がしてしまったのだった。だから、マリイの四月はもうじき終わる。世間がまだ三月の寒さに身を縮めている中で、彼女の部屋だけが四月の陽気に包まれている。写真の中の桜の木は、花を満開にして咲き誇っていた。
 
 
 気がつくと、彼女は大きな桜の木の下に立っていた。辺りは眩しいくらいに明るかったが、太陽はどこにも見当たらなかった。
 辺りを見回すと、背後から一人の男が歩み寄ってくるのが目に入った。
 眩しさに目を細めながら、男を眺めた。男は城の士官が着るような、紫紺の制服を着ていた。
 男はマリイの目の前で立ち止まった。男の目を見つめながら、彼女はいった。
 「おかえりなさい」
 そして彼もまた、彼女の名前を呼んだ。
 「やあ、マリイ。遅れてごめんね」
 遅れてごめんねといった彼は、今まで一度も約束の時間に遅れたことのない男だった。
 二人は向かい合って、たがいを抱き寄せた。
 制服の襟は折り目どおりにぴっちりと折られていて、しわはどこにも見当たらなかった。
 マリイは彼の胸に顔をうずめた。ラズベリーの香りが立った。
 男は彼女の背中に手を伸ばし、抱きしめた。左手には短剣が握られていた。
 マリイは、彼が短剣を握っていることをすでに知っていた。そして、その短剣が自らの喉を引き裂くであろうことも。
 二人はしばらく見つめあい、くちづけた。彼の唇からは、甘い香りがした。
 二人の唇が離れた瞬間、彼女は自分の喉から、ゴポゴポと血が噴き出していることに気がついた。男の左手に握られた短剣は、血にまみれていた。
 マリイは彼に背を向けて、大きな桜の木の下によろよろと倒れこんだ。彼女の喉から溢れ出る血が、桜の幹にビシャリと飛び散った。
 彼女は仰向けに倒れた。見上げると、あれほど満開だった桜の花は、すでに散ってしまっている。漂白したみたいに真っ白な空を埋め尽くすように、桜の花びらがひらひらと舞っていた。
 彼女の四月が、終わった。そう、彼女だけの四月が。
 すべての散った花びらは、彼女の上に降りかかっていった。そしていつしか彼女の肉体は、桜色の海に沈もうとしていた。
 かろうじて残った視界の端に、彼を捉えた。彼は、彼女の方を見ていた。
 男は顔一杯にやさしく微笑んでいて、彼の口が、彼女のために言葉を紡いでいた。
 「あいしているよ」マリイには、彼がこう言ったように見えた。
 マリイはゆっくりと体の力を抜いた。時間がのっぺりと引き延ばされていくのを感じた。そして静かに目を瞑り、桜の海へ沈むのに身を任せる。
 暗闇だけが残った。
 
 
 目覚めたとき、マリイはソファに横たわっていた。ふと、カレンダーに目を向ける。写真の中の桜の木は、これ以上ないほどの満開だった。時計を見ると、すでに約束の時間を十分過ぎていた。部屋にはまだ彼の気配はない。マリイは一つ息をついた。
 その矢先、玄関の呼び鈴が鳴った。
 反射的に立ち上がった彼女は、パタパタと玄関先へ向かった。玄関には、先ほど踵を壊してしまったサンダルが無造作に脱ぎ捨てられている。彼女は靴棚の扉を開け、急いでサンダルを中へ押し込んだ。
 一度咳払いをしてから、マリイは静かにドアの鍵を開けた。
 そこには、ラズベリー酒の入った紙袋とケーキの箱を抱えた、一人の若い男が立っていた。
 マリイは男に言った。
 「おかえりなさい」
 すると男は、顔一杯にやさしく微笑んで、こう言った。
 「やあマリイ。遅れてごめんね」
 男を部屋に招き入れると、マリイは玄関のドアを閉め、しっかりと鍵をかけた。
 マリイの二十四歳は、あと二時間で終わることになっている。
  

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