Scatterbrain


 
 今ごろミラノのどこかで携帯電話が鳴っている。
 その電話がストーンズの野暮ったいメロディの切れ端を響かせているのは、人っ子一人おらず、街灯も差し込まないような、路地裏のゴミ捨て場の脇でのことなのかもしれない。それとも、いま少しの高い料金と引き換えに星付きの料理を振舞ってくれる、ホテルの豪奢な続き部屋のベッドサイドなのかもしれない。あるいは、試合後のサン・シーロでカルチャトーレたちにサインをねだる人だかりの中にあったとしても、それはそれで、不思議でもなんでもなかった。どんな場所だっていいのだ。そこがミラノであるならば、どんな場所だって僕は構わない。ミラノの路地裏、街灯に照らされた人気のない路地、トマトソースのむせ返るようなにおい、路地を出た瞬間押し寄せるネオンの洪水、ナイトカフェの陽気な喧騒、ベルモットが醸すアーティフィックな香り、テレビに映るシチリアの海の奔放な黄金の光、それを浴びてびっしりと肩を並べるヨットの群れ……。
 滞りなく展開されるミラノの情景を余所に、カラカラに乾いた呼び出し音が退屈を知らずに鳴り続けていた。その音にじっと耳を澄ませて、僕は陽司が電話に出るのを待っている。
 いまになって思うと、それは互いに望まれた別れだったのかもわからない。僕らが最後に顔を合わせたとき、彼は荷作りの最中だった。僕らは十八歳で、もうじき冬が終わろうとしていた。
 陽司が三つ目の段ボール箱に物を詰め込んでいる間、僕はソファに腰掛けながらタンス横の壁を黙って眺めていた。昨日までその壁にはサッカー選手のポスターがいくつも貼られていて、僕が眺めている場所にはたしかインザーギのポスターがあったはずだ。ポスターの中でタコみたいに口をすぼめたインザーギは、そこでボールを追いかけながら、ピッチを所狭しと駆けずり回っていたのだった。けれど、それが今やどうだろう。すっかり剥がされてしまったポスターの下には、作り物めいて真っ白な壁紙がのぞいているだけなのだ。日やけで黄ばんだ周りの壁との断絶は、もはや取り返しがつかないようにも思われた。日光から守られ、その場所にしぶとく染みついた過去の断片は、いまや朝の日差しに照らされてゆっくりと気化されつつあった。目の前で蒸発していく記憶が鼻先をかすめる度に、僕は乾いた体育館の塵のような匂いを感じた。そうやって立ちのぼっていく湯気を、僕は黙って見つめることしかできなかった。
 「なあ、どれ持ってけばいい?」見ると、陽司が本棚の前に座って考えこんでいる。
 「なんでも好きなやつ持っていけばいいよ」と僕は言った。「多すぎて困るってこともないんだから」
 「まあそうなんだけどさ……」陽司はおずおずと本棚から段ボール箱へ本を移し始める。『草の竪琴』、『長いお別れ』、『時計じかけのオレンジ』、『痴人の愛』、『ライ麦畑でつかまえて』、『晩年』、『トニオ・クレエゲル』、『母なる海』、それから、北杜夫の『幽霊』。
 「ねえ、この本なんて、あんたずいぶんお気に入ってただろ? ホントに持ってっちゃっていいの?」と陽司は尋ねる。
 「いいよ。僕はもう読まないから」
 「あんなに好きそうだったのに」
 「いいんだ」と僕はうなずく。「いま陽司が持って行きたい本と、僕がこれから読んでいきたい本とは、たぶん、全然一致してないから」
 「だってそんなの、わからないだろ」
 「いいや、わかるよ」そう言って僕はパッと右手を払う。「とにかく、僕のことは気にしなくていいから、本もCDも好きなものを持っていってくれ」
 納得できない様子ではあったけど、陽司はしぶしぶCDを選び始めた。彼がラックから取り出すものを、僕は黙って眺める。
 クイーンのグレイテストヒッツ、スマッシングパンプキンズの『ロットン・アップルズ』、U2の『ヨシュア・トゥリー』、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの『レネゲイジ』。ミューズ『オリジン・オブ・シンメトリー』、システム・オブ・ア・ダウン『トクシシティー』、ジェット『シャイン・オン』、ステレオフォニックス『パフォーマンス・アンド・カクテルズ』、ザ・プロディジー『ファット・オブ・ザ・ランド』。
 ここまで観察し、もう見るべきものはないと知って、僕は傍らに閉じてあった本をおもむろに手に取った。挟んでおいた栞をパラパラと探し、次の瞬間にはもう物語にのめり込んでいる。本のタイトルは、『孤独の発明』。陽司がこの本を催促する様子を、僕にはまったく想像すらできなかった。
 はっと我に返ると、受話器の向こうで機械的な音声が持ち主の不在を伝えているところだった。
 「発信音の後にお名前とご用件をお話しください」
 用件? どんな用件があるというんだろう。伝えるべきことなんて何もないのに。僕の生活は相変わらずだし、家族になにかの変わりがあるというわけでもない。地元の中学校が閉校になるという知らせがあるにはあるけど、それを話したところでいったいどんな意味があるんだろう。実のところ、いま陽司に伝えなければいけないことなんてただの一つもないのだ。それどころか、ここ二年間というもの、僕らは一度として口をきいてすらいないというのに。
 僕はゆっくりと電話を切った。
 駅までの道のりには公園を通った。実家にいる父のために買った土産を紙袋にぶら下げて歩く。土産は生ものだけど、山ほどの冷凍剤と一緒にしてあるので、一日くらいは持つはずだった。石畳に沿って青く繁ったイチョウとモミジの日蔭を追って、僕は黙々と歩いた。
 楓の青臭い匂いに顔を上げると、花柄の日傘を差す老女が目に入った。続いてアロハシャツに細いサングラス、連なって走る二人乗りの自転車、ピンクのポロシャツと額に光る汗、ベンチで手をつなぐ男女、母親に手を引かれる女の子、頭には大きなむぎわら帽子、手には融けかけのソフトクリーム。
 それは札幌のみじかい夏だった。僕らはたった一か月の夏を過ごすために、安くはないポロシャツと高くはない清涼スプレーを、毎年のように買わなければならないのだ。
 なぜか無性にソフトクリームが食べたくなって、僕は出店を探した。けれどそんなものはどこにもなかった。じゃあさっきの女の子は、いったいどこでソフトクリームを買ってもらったんだろう? でもじきにそんなこともどうでもよくなって、僕は駅までさっさと歩いていった。そのまま窓口で切符を買って、室蘭行きの列車に乗り込む。
 帰省の車窓が映す景色は、ある地点を越えると急速にさびれていく。人口密集率はベッドタウンを通過するあたりからエクスポネンシャルに減衰しはじめ、気が付いた頃には荒れ地や杉林に辺りを囲まれてしまっているのだ。よほど気を張って車窓を眺めでもしない限り、そこにあるはずの連続性をその目で捉えることは難しかった。
 読んでいた本から目を放したとき、車窓の景色はすっかりさびれていた。線路脇に積み立てられた砂礫と、奥の笹林との境界上には、やせ細って赤茶けた地面が斑に見え隠れしている。林の合間に時おりのぞく土地に人影はなく、ジャガイモかなにかの畑がまばらに見えるだけだ。また見逃してしまったのだと、僕は思った。ひと繋がりだったはずの風景が、そのすらりと伸びた脚を組み替えたのは、いったいどの瞬間のことだったんだろう。こうして僕のなけなしの連続性は、ちょっぴり目を離した隙にいともたやすく失われ、僕は毎度のことながら、その呆気ない喪失を憮然として噛みしめることしかできない。
 通路を挟んで反対側の座席が不意に目に入る。そこには20代くらいの若い女性が座っている。右手を通路側の席に投げ出し、さっきまで僕がしていたように、彼女は四角い窓枠が切り取った景色をぼんやりと眺めていた。手のひらを下にして置かれた右手は白く、指の関節は意外なくらいにごつごつとしていた。マニキュアはしていないけど、爪の手入れはしっかりしているようだった。中指の第一関節と第二関節の間に小さな切り傷があって、もしそれがまな板の上でつけられたものだったとしたら、きっと彼女は左利きなんだろうと思う。つい普段の癖から、僕は彼女の手や指のかたちを、それとなく観察している。
 僕は想像する。「わたしの手に何がついてますか?」と言って僕に困ったような笑みを向ける彼女を。そこから生じるいくつかの他愛のない会話と、なめらかに高揚していく自分の感情を、できるだけ精密に思い浮かべてみる。
 彼女の名前はきっと明日美といって、僕と同じく実家に帰省する途中だ。「わたしね、列車に乗るのが好きなの。窓を流れていく景色って、なんだかとても儚くって、ちゃんと見ててあげなくちゃいけないって気にさせるでしょう?」「なんとなくわかります。特にこんないい天気の日って、いい天気だからこそ余計に心配になっちゃうんですよね」「うんうん」「夕焼けの時なんて、特に目が離せない」「よくわかるよ。でも、そうやって言うわりには、あなた本ばっかり読んでるんだね。車窓の景色は儚いとか言っといて、全然見向きもしていない」「僕は、心配するより信頼したい性質なんですよ。だから、あえて風景を見たりはしません」「ふーん。いま君、まるですごく気の利いたセリフでも言った気になってるでしょ」そう言って明日美は笑う。彼女の黒髪はまっすぐ背中まで伸びていて、手で梳いたらとても気持ちがよさそうだった。
 でも、僕はもちろん知っている。それは何もかもすべてが嘘っぱちで、こんなバカみたいな会話なんてどこにもありはしないのだ。
 僕の想像力は、僕の現実の助けにはなってはくれない。
 現にいま彼女は、自分の方に顔を向けて何やら考え事をしている怪しげな男に向かって、いかにも怪訝そうな表情を向けているじゃないか。彼女の名前なんて、僕が知っているはずがない。
 僕はさっきまで読んでいた本の上に視線を戻した。タイトルは『マイ・ロスト・シティー』。フィッツジェラルドの流麗な筆致は、今の気分にはあまりにも不釣り合いだった。
 
 
 実家には誰もいなかった。ただいまー、と声を張り上げてみても、応じる声はない。ダイニングルームのブラウン管テレビは、誰も観る者のないまま、見知らぬ芸人のバラエティー番組を虚しく放映している。テーブルにはわずかにコーヒーを残したカップが一つだけ、アンバランスに重厚な硝子灰皿は吸いがらに満たされていて、ソファ脇の窓が大きく開かれているにもかかわらず、家の中にはたばこの煙が充満していた。まるで父がたばこの煙になって、部屋の中をいつまでも漂っているみたいだった。濃密な煙が窓から空気を押し出しているかのようだった。土産の紙袋を冷蔵庫にしまい込むと、僕は力を失ってソファにへたり込み、うるさく喚きたてるテレビの電源を切った。
 ものごころついて以来、兄弟もなく学校の友達も少なかった僕は、仕事で忙しい父の帰りを待つ間、日がな一日テレビゲームに興じていることがほとんどだった。当時の僕にとってテレビとはプレイ画面を出力するための道具に過ぎず、我が家の居間はそれ以外の時間、僕を除いて常に無人無音の空間だった。出来るだけ音を立てないようにゆっくりとソファに寝転がり、僕はありふれた少年漫画や偉人たちの伝記を読みながら、日が暮れるまで一人で過ごしたものだった。とくに雪が降りしきる真冬のひとときはすばらしかった。台所から冷蔵庫の唸りが消えるとき、家の中はピンと糸の張ったような静けさを湛えた。自分の心臓の鼓動と三半規管が発するくぐもった音以外、僕の耳に届くものは何一つとしてなかったのだ。窓越しに降り続ける大雪の激しさとの対比は、幼かった僕の精神に決定的な何かを植え付けていった。
 小学校に上がってからの二年間、僕には母親がいた。ある日父と二人きりだったかと思うと、次の日にはもう父の結婚式がやってきた。その夏、僕は生れてはじめて自分の母親をこの目で見た。それから、弟も。
 陽司はこの母の連れ子で、僕とは歳が同じだった。僕らは家にいる間、一言も会話を交わさなかった。
 二人目の母親は、家にいる間常にテレビをつけておかないと落ち着かない人間だった。母が家の中にいる間、テレビの電源が切れることは一度もなかった。テレビゲームは一日三〇分間に制限され、僕の無人無音の空間は知らぬ間にどこかへ消え失せていた。僕はテレビの存在を憎悪し、母親の存在に困惑した。切実な危機感から、学校の帰り道を共有する友達を作ったのもこのころだった。僕の帰宅時間は徐々に遅くなってゆき、それが夜の七時を回ったころ、僕の二人目の母親は、突然僕の前から姿を消した。
 陽司だけがうちに残った。それからはずっと、僕は父と陽司と三人で暮らしている。
 晩夏の夕刻らしく、庭からはスズムシやキリギリスの甲高い鳴き声が聞こえてくる。それに混じって聞こえる隣家の話し声とラジオの音が耳にさわるけど、暑いので窓を閉めるわけにもいかない。二軒隣に建つ外崎の工場からは、相変わらず金属加工の音が地鳴りとともにひびいてくる。ああ、なんて鬱陶しいんだろう。ありとあらゆる音が僕の平穏の邪魔をする。この耳に入るすべての音を駆逐しなければならない衝動が、僕をにわかに駆りたてる。なんとかしなくちゃいけない。僕は今ここで、なにかの行動を起こさなければならないのだ。でも、いったい何をすればいいんだろう。
 顔を上げて台所に目を移す。冷蔵庫の前には明日美が立っている。彼女は微笑みながら、何モシナクタッテイイジャナイ、と僕に言った。それは金属質な声で、どこか居心地が悪いような響きがあった。僕がいつまでも動けずにいると、彼女は滑るように歩いてテーブルの向かいに腰かけた。人差し指と中指の間に火のついていない煙草が一本挟まれている。
 僕は苦い汁が肺の隅々にまで沁み込む感じを味わった。まさか、さっきまで部屋に充満していた煙が彼女を形成してしまったのだろうか、と思って僕は鼻をひくつかせる。けれどタバコの匂いはまだそこら中にはびこっているようだった。煙を吸い込んだせいで鼻の奥がむずむずして、僕はひとつ大きなくしゃみをした。鼻水をすすって顔を上げると、そこに明日美の顔がある。彼女はこちらをじっとみつめながら、ドウシタノ?風邪ヒイタノ? と上目づかいに問いかけてくる……………………
 
 
 僕は実家の玄関を出て、町道を歩いていた。西の山際に金星を見ながら進む道のりは、タイムマシンまでまっすぐ伸びている。
 居間に一枚のハガキが置かれていて『このたび小学校の敷地に埋めたタイムカプセルを掘り起こしたので私物を取りに来てほしい』との旨が記されていた。十歳の僕らが埋めたものを、二十歳の僕らに回収しろという。その頃の自分が何を埋めたのか、僕には皆目心当たりがなかった。
 国道を走る車の音がここまで聞こえてくる。割れたアスファルトの合間から雑草が顔を出し、歩道の脇には身の丈を越す茂みがざわめいている。昔あれほど遠く感じられた小学校までの道のりが、今ではとても短いように感じられる。そうだ、沈む太陽に追い付かんとする明星を指差しながら、かつてここを通った僕は、帰り道をともにする友達にこう言って聞かせたものだった。「あの明るい星は金星で、宵の明星って呼ばれてるんだよ、なんで明け方と夕方にしか見えないかっていうと、金星は太陽の近くにあるから夜中には地球の裏側に回ってるし、だから太陽の光が届きにくくなる明け方と夕方にしか見えないんだ、ちなみに水星は金星よりももっと太陽の近くにあって、肉眼じゃ見えないから望遠鏡を使ってみるんだけど、このとき望遠鏡を肉眼でのぞいちゃうと、下手すれば失明しちゃうんだ、だから黒いフィルターを望遠鏡の接眼レンズにはさんで、慎重に見なくちゃいけない、そもそも水星には大気がなくて、これは太陽の放射で全部吹っ飛ばされちゃったからなんだけど、だから水星の見た目は月にそっくりで、水星にもクレーターがあるんだ、あ、そういえばねえ、水星の一日は一年よりも長いんだよ、これはなぜかっていうと、水星の自転周期が……………………」
 学校へ近づくにつれて、町道は海に接近していく。日没前の太平洋は暗く澱んでいて、水平線がうまく視認できない。そしてそのことが、かえって陸地と海との越えがたい断絶を強調しているようでもあった。テトラポッドに埋められた海岸線は、巨大なクレバスを僕に連想させる。十年前の日、ここはまだ砂浜だった。
 護岸工事の名目をもって、砂浜はコンクリートに埋められた。無造作に積まれていたテトラポッド群は速やかに撤去され、より秩序だった立方ブロックが海岸線を埋め尽くした。
 もうここで海釣りはできないと、当時の自分がひどく嘆いたことを僕は思いだした。中学生だった僕が竿を二つに折りながら大きなアブラコを吊りあげた場所が、この砂浜だった。しかしそうやって嘆いたのも束の間、それから二つの冬を越えたころには、コンクリートの足場にびっしりと張り付いた昆布を、僕は友人と一緒に素潜りして取っていたのだった。手に入れた昆布はその日のうちに天日干しにして、親戚の家に配って回った。
 自然を簡単に破壊できるほど、人間は強大な生き物ではない。そのことを、僕はこの海岸から学んだ。あらゆる出来事には、なにかしらの教訓が潜んでいる。
 しばらく歩いて校門前の高台に差し掛かると、そこに陽司が立っていた。見覚えのある緑色のジャケットに身を包み、眉間にしわを寄せて僕を眺めていた。足元で白く輝く真新しいスニーカーが、僕の目を引いた。
 どうして陽司が今ここにいるんだろうと、僕は思った。いつの間にミラノから帰ってきたんだろう。
 「遅いぞ」ポケットに手を突っ込んだまま、陽司が僕に言った。
 「ああ、わるい」僕が曖昧に返すと、「まあいいよ。あんたが時間にルーズなのは、今に始まったことじゃないから」と言って、陽司は足元の小石を蹴った。
 その小石が不規則に転がっていくのを、僕はぼんやりと見つめた。そして自分の視界が揺れていることに気付いて、顔を上げる。強い海風が周囲を吹きつけていることに気付いた。海から山へ吹き抜けるそれは、まるで山際に落ち込む夕日に吸い込まれていくような、強烈な潮風だった。
 ふと、目の前を飛び過ぎていく一羽のカモメに目にとめた。頭頂部に赤い毛が見えるので、たぶんメスだ。カモメは僕の前で方向転換すると、夕日に背を向けて海風に向かっていった。風は強い。波は高く、海は荒れている。飛行運動が風と釣り合い、カモメが空中で静止するのを、僕はこの目で見た。
 まるで写真みたいだった。カモメは雲と一緒に固定され、風は僕を避けて通った。地面の石は微動だにせず、水平線はあいまいだった。風に揺れる雑草だけが、唯一の色彩だった。
 どうして陽司がここにいるかなんて、何か途方もなく小さな疑問であるように思えた。
 「早く行こうぜ」と言われて我に返ると、陽司はすでに十メートル先を進んでいる。彼のスニーカーが、新品同然に光っている。
 彼の歩む先が僕の知っている世界に通じているかどうか、僕にはわからない。自分を支える地面が、急速に揺らいでゆくのを感じる。
 互いに無言のまましばらく歩き、小学校までたどり着く。
 地元のスポーツ少年団がグラウンドでキャッチボールしているのを目にした。数えてみると、彼らは七人しかいない。中には女の子も混じっていた。七人で野球をすることの難しさを、十歳の彼らは、いったいどのように捉えるのだろう。
 職員玄関から中に入ると、教頭と名乗る男が僕と陽司を案内した。見おぼえのない不思議な顔で、ヒトの顔のテンプレートをいくつか繋ぎ合わせたような、のっぺりとした表情が印象的だった。職員室をのぞくと、見知らぬ顔が並んでこちらの方を見つめていた。僕らが知っている「学校の先生」は、きっともう一人も残っていないのだと、僕はようやく気づいた。
 僕らは廊下を歩く。一般の例にもれず、僕らは学校の建物の思いがけない小ささに驚いた。
 職員室前の掲示板に歴代卒業生たちの卒業写真が掛けられているを見つけて、陽司は懐かしそうに目を細めた。「お前って、昔から写真写りが悪いよな」と僕が言うと、陽司は僕を小突いて「あんたほどじゃないよ」と答える。
 「自分の面が曲がっているのを、カメラのせいにして何になる」と僕が言えば、お互い様だと陽司は笑う。
 返ってくる言葉は、すべて僕の頭の中にあった。僕らの応答は、すべてが自己撞着でしかなかった。
 音楽室の前のグランドピアノにビニールテープが巻かれているのを見て、僕は自分が何かとんでもない間違いを犯しているのだと気づき始める。僕はこんな場所に来るべきではなかったのだと思い、ちらりと陽司の顔を覗くと、彼はなにかとても面白いものを見るような眼で、静かにそのグランドピアノを眺めていた。放っておけばそのうち大太鼓やら木琴やらバスオルガンを見たいと言い始めるような気がしてゾッとした僕は、陽司の肩を叩いてさっさと先を促した。
 タイムカプセルは旧体育館倉庫に安置されていた。それは金属製の立方体で、巨大な菓子箱のようだった。とても静かな佇まいだった。耳を澄ますと、グラウンドを走る児童たちの声が、窓の外からかすかに聞こえてきた。呼吸の度に埃の匂いが鼻につくけど、それでも空気は不思議なくらいに澄んでいる。西向きの窓から差し込む陽光は、限りなく透き通っているように見えた。長い間誰にも使われずにいた場所特有のひどく感傷的な空気が、周囲にまとわりついていた。
 教頭を名乗る男は、いつしか僕らの前から姿を消している。
 かつて毎日のように通ったこの建物の匂いや物音が、いまや決別を告げるかのように僕らの周りにあふれていた。僕らは、これまでに培ったすべてを失おうとしているのだと知った。僕らの間に横たわる物理的な距離は、わずかに数メートルだ。
 「十年前の自分がこの中に何を入れたか、覚えてる?」陽司が言った。
 「そんなの覚えてないよ」と僕は答える。「そもそも、うちのクラスがタイムカプセルを埋めたって話自体、初めて聞いたような気がしてるんだ」
 僕の声はひとつ残らず、降り積もった埃の中に吸い込まれていった。一切の反響は起こらない。僕は、自分が旧体育館倉庫で独り言をつぶやいているのだと感じた。この場所には僕しかいない。僕はいまもひとりだ。頭が熱をもち始めている。
 「あんたが忘れていても、俺はちゃんと覚えているよ」そう言って陽司はタイムカプセルに近づき、金属箱のバックルをばちんばちんと外した。カプセルはぱっくりと開いた。
 箱の中にはきちんと折りたたまれた手紙やら、ブラシやら、ぴかぴかのミニカーやら、当時流行したヨーヨーやらが収まっているのが見えた。陽司は驚いたような表情でそれらをじっと見つめていた。そして静かに、まるで映画館の中でささやくような声で、陽司は言った。「これが誰だかわかるかい?」
 僕は近くに寄ってみた。黒い髪を背中まで伸ばした、ふっくらとした顔つきの少女の写真が、一枚の茶封筒の口から覗いて見えた。僕が写真について何か言う前に、陽司はすばやくその写真を茶封筒の中に入れ、上着のポケットの中に隠した。彼が何をしているのか、僕には理解できなかった。
 なおも彼はカプセルの中をまさぐり、誰のものかもわからない古びたパイプの切れ端のようなものやら、名前も忘れたクラスメイトの筆で『元気』と書かれた黄ばんでくしゃくしゃになった半紙やらを取り出しては、なにを思ってこんなものを入れたんだろうねとでも言いたげな視線を僕によこしていた。僕は埃を払った椅子の上に座って、その四本ある金属製の足を爪で機械的に打ちながら、黙って彼の方を眺めていた。僕らは二年前に別れてから、会話らしい会話なんて一度もなかったというのに、どうして今こうして僕らはここに一緒になっているんだろうかと考える。もう二度と会うことなんてないと思っていたのに、現に陽司はこうして僕の前に再び現れた。僕は今起きつつあることをしっかりと認識するように、彼の動作のいちいちを目で追っている。自分はいま、きっちりとけじめをつけなければいけないのだと思った。
 あの少女。「あの写真の娘は一体誰なんだろうね」僕はそう訪ねて、カプセルの前に進み出る。「僕には、見覚えがある」陽司に相対して、写真をよこせと手のひらを差し出す。その時ようやく、僕は明日美のことを考えた。明日美の背中にかかる黒髪の美しさを思った。それから一瞬、僕の部屋のベッドサイドで明日美の隣に腰かけた陽司がその美しい黒髪を手で梳いてやるのを、明日美が陽司に毛糸のマフラーを繕ってやるのを、陽司が僕の本棚から持っていった小説を明日美に貸し与えるのを、僕は想像した。
 「お前には渡さねえよ!」陽司は怒鳴って僕の胸ぐらをつかんだ。「この写真は俺のものだ!」錐のような目でこっちを睨みつけている。そして僕らは、正面からお互いの顔を覗き込んだ。
 《でもわたしは、あなたの造形でもある》僕は陽司の顔にそう書いてあるのを読みとった。彼女の声を知って、陽司の上着のポケットに手を伸ばす。「お前の明日美と、僕の明日美は違うよ」と僕が言うと、もう陽司の右拳が僕の鼻先まで迫っていた。僕は拳を握って衝撃に備える。インパクトの瞬間、伸びきった腕を掴んだ。互いに腕をもつれさせながら埃が積もった床をのたうち、陽司の額が僕のあごに入り、僕の膝が陽司の脇腹に入った。タイムカプセルがおかれた古びた机が倒れ、カプセルの金属音とともに、中に入った誰それの思い出の品々が床に散らかっていくのが見えた。互いにお互いをやめようとしながら、僕たちは床の上で激しく揉み合う。
 陽司はずいぶんと堪えたようだった。だんだん動きが鈍くなり、膝や肘のあたりが擦り切れていた。埃まみれになった頭髪のせいか、突然老けてしまったようにも見えた。彼の肉体はみるみる古びていって、少し力を入れただけで容易に転倒し、仰向けになってしまった。新品同然だった彼のスニーカーが、みるみる黒ずんで硬化していった。頭髪を鷲掴みにすると、犬のブラシのように硬かった陽司の毛髪が、両手いっぱいに抜け落ちた。互いに取っ組みあいながら、僕はこうして格闘しているうちに、陽司がどんどん消えていってしまうような気がした。それから、自分が徐々に変身していく様子を肌で直に感じてもいた。あるいは僕らが立ち上がってみると、僕は陽司になり、陽司は僕になって死んでいくようにも思われた。
 しかし結果として、僕はもう二度と陽司にはならなかったし、陽司は僕の前から永遠に姿を消してしまったのだった。
 力任せに相手を突き飛ばし、床に手をついて立ちあがった。目に映る世界が、まるで別のものであるように思えた。窓の外はすでに薄暗かったが、その眺めはこれまで見てきたものとはてんで別物であるのだと知った。僕はもう、誰とも何ともつながりを持ちえないのだと思った。僕もまた、両顔の存在だったのだと。今日までの僕は、陽司と僕の両顔だった。明日美もそうだ。写真の中の明日美と僕の明日美は別人で、けれど彼女は、たしかに二つの顔を持った少女であり、一人の明日美だった。僕は自分がよく見知った明日美から、写真の中でほほ笑んでいる明日美へと歩んでいく。いや、歩んでいきたかった。けれど僕は、明日美にいったい何を言えばいいのか、彼女に何をしてもらいたいのか、全然わからなかったのだ。
 僕は明日美の事を考えながら、少しずつ陽司を突き放していく。
 上着に付いた赤い血、自分と陽司との血を眺めて、思い出したように鼻を拭った。眼球はすっかり乾き、まばたきする度に引き攣ったような痛みを生じる。髪に付いた埃をパサパサと払い、すりむいた手の甲に唾をつけた。
 気がついたとき、僕は陽司の腐乱死体の前に忽然と立っている。
 
 
 家に帰って茶封筒を開けると、中に明日美の写真と二重折りになった手紙とが入っていた。
 リビングにはもう明日美の姿はなくて、父親が残したタバコの煙もすっかり消えていた。
 外からは何も聞こえない。工場の騒音も秋の虫の泣き声も、今は一切聞こえない。
 写真の中でほほ笑む明日美は、どこにでもいる一〇歳の少女だった。その笑顔を僕はよく知っていたし、その笑顔が僕に向けられることはもう二度とないということも、もちろん知っていた。
 明日美と僕には、もはや何の接点もない。単に同じ小学校に通っていたというだけのことで、今はどこの町で暮らしているのかも知らないし、また知ろうとも思わない。
 それもそうだ、と僕は言った。何しろ僕は、明日美と陽司の二人を、今日こうして、この手で殺してしまったんだから。
 僕は陽司であったし、陽司は僕であった。そして二人は、確かに明日美という一人の少女を愛していた。たったそれだけのことだった。
 僕は封筒の中に手紙と写真を戻し、大きな硝子灰皿の上にそれを乗せる。ライターで火をつけると、それはあっという間に燃え尽きてしまう。このようにして僕の決別は、いともあっけなく達成されたのだった。
 僕は携帯電話を取り出してアドレス帳を開く。そこには陽司の電話番号は入っていなかったし、もちろん彼の名前なんてどこにもなかった。
 バックライトが目にしみて窓の外に目を向けると、あたりはもう真っ暗だった。静かに携帯電話を閉じて、僕は部屋に明かりを灯す。
 干しっぱなしだった洗濯物を下ろして、一つずつ畳んで父のタンスにしまいこむ。すると玄関から、スリッパを履き捨てる音と、買物袋がこすれる音とが聞こえてくる。
 「おい陽司! 帰ってくるなら電話くらいよこしなさい」と父は僕の顔を見るなり言った。「わかっていれば、ちゃんと二人分買ってきたのに」手にぶら下がった買物袋には、今晩の食事の材料が入っているようだった。
 だから僕は、土産に買ってきたイカを冷蔵庫から取り出して、父に見せながら言った。
 「久しぶりに刺身が食べたくなったから、市場でこれだけ買ってきたんだ。学生会館じゃ、生ものは出ないからさ。でもこれだけあれば、二人分、足りるでしょ?」
 イカ刺しは、父と僕の大好物だった。

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